1月5日(金)●新年である。新しい一歩である。本当は昨年10月から12月までのいろいろ
(大阪出張にかこつけて遂に豊中の「ギャラリー176」に足を運んだこととか、京都での会議に早乗りして西天満の「early
gallery」に顔を出したあげく花形愛音の「やすらかな常闇」に心臓を鷲掴みされて衝動買いしてしまったこととか)をアップしなければならないはずなのだが、年末にちょっと心塞がる出来事があってまだ十分に立ち直っていないのでご勘弁。新年早々浅野編集長お許しをである。
気を取り直して本年の画廊開き
(?)である。どこにしよーかなーと思うがさすがに幕の内はどこもお休み。その中で気を吐いているのが「ギャラリー冬青」。なんと5日からの営業である。年明け早々気合い十分である。
新中野駅から青梅街道を荻窪に向かって歩き出す。日差しは暖かいがちょっと向かい風。立てたはずの襟がくたりと倒れてしまうのはすでに20年選手の当方の冬の一張羅。一昨年裏地を張り替えてもらったもののやはりくたびれ感は否めない。もっとも、それを身に纏っている方はもっとくたびれているわけだから仕方ない。昨年胃カメラを飲んだら逆流性胃炎と炎症性ポリープが見つかって朝夕胃薬を飲む毎日である。まあ、45年間こちらの暴飲暴食に付き合ってくれているのだから文句を言うのはやめておこう。そんなわけでこちらは着実に高齢化の階段を昇っているサエない中年男ではあるのだが、それでも目は少年のようにキラキラしている
(はずだ)のは、世に写真とギャラリーがあるからで、その足取りが軽いのは昨年末に何とか出たボーナスでギャラリー冬青は渡部さとる「da・gasita」シリーズ、アートスペースモーターは北井一夫「ライカで散歩」シリーズの未払い金が精算できたからである。ああ、借金がないというのはなんと素晴らしいことだろう。
というわけで「ギャラリー冬青」である。青梅街道から150メートルほど入った住宅街の真ん真ん中。ついでにふらりと立ち寄れるような立地ではないが、展示はいずれもわざわざ足を運ぶのに足る企画展ばかりである。
2007年の皮切りは「Hiroshi
Watanabe写真展
"Observations"」。不勉強だけあって全然聞いたことのない名前なのだが、届いたDMが「おっ」と思わせるものだったのと、昨年末に支払いに伺った際に「自信があります」とのスタッフのコメントにこれは足を運ばねばと思わされた次第。正月飾りの飾られたドアを開けて上がり框で靴を脱ぐ。ひょっとしてスタッフは振り袖では、などと期待に胸が膨らむが、さずがに銀行ではないので晴れ着ではありませんでした。残念。
もっとも、今回の展示には晴れ着は似合いそうもない。展示は振袖よりもモノトーンのツーピース
(?)の方が良く合うモノクロのファインプリント。ハッセルブラッドによるスクエアフォーマット。サイズは10×10インチと小振りながらその存在感は圧倒的。端正で硬質、しかし決して単調でも無機質でもなく、芳醇で豊潤な銀塩の香りに満たされた展示である。これは大当たり。「やったあ」である。
特に何が映っているというのではない。風景が映っているが風景写真ではなく、人物が写っているがポートレイトではなく、モノが映っているが静物写真ではない。それはまさに「写真」としか言いようのないものである。ウォーカー・エバンスの"Photographs"を思い出したといっても別に誉めすぎにはならないであろう
(だって実際思い浮かんだんだもん)。
それでもそこに聞き取れる通奏低音のようなものがあるとすればそれは「ヴェール」だろうか。展示されている全部のイメージがそうだというわけではないのだが、キーとなるイメージが、カーテン越しのワールドトレードセンター
(!)とか、防鳥ネット越しの鳥の群れとか、ハーフスクリーン越しの広場とか、霧の中に消えてゆく橋とか、何か一枚薄絹に隔てられている世界のイメージ。見えるようで見えない、つかめるようでつかめない。しかもそれが欠落感や焦燥感をではなくむしろ充溢感や期待感を抱かせる。なんだか手妻師に騙されているような、でも騙されるのが快感であるような摩訶不思議な気持ちになる。そしてやああって、これが「みる」ということの、そして「写真」というものの一つのメタファーとなっていることに気が付く。
見るということはどういうことか。わたしたちは本当に見ているのか、見えているものは本当に見えているのか。わたしたちの目にはウロコが、顔には色眼鏡が、頭の中に思いこみやら願望やら妄想やらの十重二十重のヴェールがかかっているのではないか。何の変哲もないイメージが、出口のない迷路のように見え始める。
そして決定的に見る者の視線をはねつける「柵」。私たちが見ているのは表面に過ぎないこと、向こう側は見えないこと、見えるものより見えないものの方が遙かに大きいことが否応なく突きつけられる。どこからか「大切なものは目にみえないってことだよ」というきつねくんのせりふが聞こえてくるようである。そこには画然として「見ることの不可能性」が写っている。
けれどもそれは「見ることへの絶望」を意味しない。見る者の視線を遮断する白い柵には、鋸の痕が、ペンキの刷毛目が、そして時が穿った裂け目が見える。そこには表面を表面たらしめているものが確かに写り、向こう側を見せまいとしている意志が写り、見えるものより見えないものが遙かに大きいことが写っている。そこには見ることの不可能性が確かに「写って」いるのである。見ることの不可能性を見せることができるという一点において、写真の不可能性は可能性へと転調する。
ぷすぷすぷす。回らない頭を無理矢理回したので頭がオーバーヒートである。慣れないことはするものではない。ただ、頭を使うのが得意でない当方にさえこんなことを考えさせるような力がこの展示にはあったということである。
聞けばこのシリーズは"Veiled
Observations and Reflections" として2002年8月にWhite Room Gallery で発表され、
同タイトルのオリジナルプリント付き写真集として出版されているとのこと。なんだ写真家の掌の上で踊っていただけかとがっかりするが、それでもまあ演出家の振り付けに合わせて踊れたわけだからこれはこれで胸を張る所であろう。もっとも、本当に創造的な踊り手なら演出家の意図を超えたパフォーマンスをやってのけるはずなのだからこちらはまだまだひよっ子もいいところである。次のステップを目指して精進精進である。
テーブルの上には"B&W"、"Gomma
Magazine"、"Nueva Luz"、"ZOOM"といったそうそうたる写真専門誌。どれもが6頁から8頁を"Hiroshi
Watanabe"のために割いている。さらにプロフィールはと見れば、昨年はオハイオ州のライト州立大美術館の公募展「写真の今 100人の作品集」に日本人としてただ一人選ばれ、
アメリカの写真団体「フォト・ルシダ」の創設になる写真賞「クリティカル・マス・ブック・アワード」の最高賞を受賞。アメリカでの写真集の出版が決まっているという。
日本ではこのギャラリー冬青の展示が初めてとはいいながら、すでに、神宮前の
Paul Smith
SPACE Galleryで"FACES"展(1/19〜2/12)、
銀座ニコンサロンで「渡邉
博史展 ISee Angels Every Day
私は毎日、天使を見ている」(3/7〜3/20)の開催が決まっているというし、同名の写真集『私は毎日、天使を見ている。ISee Angels Every
Day 渡邉博史』が1月25日に窓社から発売される。着実にステップアップしている作家さんであることは間違いのないところ。鉄板ばりばり大本命である。これに張り込まない手はない。
そしてその隣にはプライスリスト。「\75,000」との数字に目を疑う。現在アメリカを中心に6つのギャラリーと契約していると聞いていたので、当然価格は1000ドルオーバー、安くても12万円は下らないとばかり思っていたので一瞬ぽかりと口が開いてしまう。どう考えても高嶺の花、ベルギーの高級チョコをボンボニエールから優雅につまむような深窓の令嬢と思っていたら実はこれが屋台の鯛焼きに頭からかぶりついて唇の端のアンコをぺろりと舐めもする庶民派だったというわけでこれは嬉しい驚きである。この値段なら結構話ができるじゃないかお付き合いをお願いできるんじゃないかこれはアタックをかけなければということになって、そうなると気になるのは三枚。ネットに止まっている鳩?の群れを下から撮ったとおぼしき"White
Terns, Midway Atoll"と、あのツインタワーを窓のレースのカーテン越しに写した"Ellis Island 2, New
York"と、こちらを一瞬にして凍りつかせた"Bora Bora, Tahiti"
(これが「柵」の正式タイトル)である。話題性ならなんといってもツインタワーだし、インパクトと議論の喚起力なら柵だし、でも何とはなしにでもなんとなく気に掛かる「シロアジサシ」
("White
Tern"を辞書で引いたらこう出てました)も捨てがたいしと、悩みながらも一番楽しい「品定め」である。
もう一度データを確認しようと価格表に目をやるとそこには思いがけない数字。
Blue Lagoon, Iceland 1999 10x10 1/30 \ 75,000
Blue Lagoon 2,
Iceland 1999 10x10 1/30 \ 75,000
El Arbolito Park, Quito, Ecuador 2002 10x10
5/30 \150,000
White Terns, Midway Atoll 1999 10x10 26/30 \175,000
Yasukuni
Jinja 1, Japan 2005 10x10 1/30 \
75,000 ステップアッププライスシステムだ。
ステップアッププライスシステムは、リミテッド・エディションの一形態として、主にアメリカの作家に多い販売スタイル。エディションが進むにつれて価格が上昇していく販売方法のこと。早く買った人は安く買え、しかも人気が出れば売りに出して儲けることもできるわけである。リスクをとって最初に手を挙げた人にはそれにふさわしいリターンをという考え方であり、市場での作品流通を促す知恵でもあろう。
渡邉さんの公式HPで確認すると、アーカイバル処理された10×10インチのイメージサイズのプリントが16×20インチの特厚の無酸性ミュージアムボードにオーバーマットされて限定30部。14×14インチのプリントが20×24インチのマット付きで限定15部。
10×10インチのプリントの価格は、エディション1〜5が750ドル、6〜10が1000ドル、11〜15が1250ドル、16〜20が1500ドル、20〜25
が1750
ドル。そして26からは一枚ずつ価格が上がって、26が2000ドル、27が2250ドル、28が2500ドル、29が3000ドル、最後の30になると3500ドルの値段がつく。約4.5倍になるわけである。
14×14インチのプリントの価格は、エディション1〜5が1000ドル、6〜8が1500ドル、9〜10が2000ドル、そしてこちらは11から一枚ずつ価格が上がって、11が2500ドル、12が3000ドル、13が3500ドル、14が4000ドル、最後の15が4500ドルとなる。こちらも4.5倍である。
この場合、プリントの価格は純粋にその時点にまでに売られた枚数によって決められる。だから渡邉さんのように複数のギャラリーと契約していて、委託という形でギャラリーにプリントを送っている場合には、必ずしもエディション番号と一致しない場合がある
(こうしないと、例えば6つのギャラリーに同時にプリントを送った場合、6/30を持っているギャラリーだけが、1/30〜5/30を持っている他のギャラリーより高い値段で売っていることになってしまう。渡邉さんにメールで教えて頂いて初めて納得した次第)。プリントが売れるとそれぞれのギャラリーから連絡が入るので、販売状況はノートパソコンでリアルタイムに把握されている。そして値段が変わった時点で、全てのギャラリーにメールでその旨を連絡すると同時にHP上の値段も変わるというわけである。
そのHPの価格表には、エディションが進んで価格が変わったイメージとその価格が記され、ご丁寧にも、その価格で購入できる最後のものには《last
of tier》との注記まである。2007年1月25日現在、SOLD OUT
はツインタワーとシロアジサシの14×14。
最後のランクが一枚ごとにしかも幾何級数的に騰がっていくこれぞ「真性」のステップアッププライスシステム。世界標準というかワールドスタンダードというかグローバリズム反対というかたった四杯で夜も眠れずである。
知らなかったわけではない。イル・テンポでマイケル・ケンナやジョック・スタージスの展示を見ているわけだから、当然エディションナンバーに連動して数字が大きくなるプライスリストを目にしているはずなのだ。でもケンナは自分にはちょっと上品すぎたし、スタージスは何となく後ろめたくて
(何が?)、本気で手が出なかった。というよりなにより価格が折り合わなかった。はっきりいって自分には縁遠いもののように考えていたのである。黒船来襲である。潮は向こうから満ちてくるのではなく足下から満ちてくるのだ。
さて、思案である。ツインタワーはソルドアウトだから問題にならない。となるとエディション26/30で17万5000円の「シロアジサシ」か、エディション5/30で7万5000円の「柵」かということになる。エディションが進んでいる高額なものにするか、エディションの若い買いやすいものにするかということである。人気のあるものは高いし、まだこれからなのは安い。市場原理が見事に貫徹していて実に分かりやすい。とはいえ、すでに人気のあるのを後追いするのも悔しい気がするし、だからといってすでに確立している評価を無視するのも愚かである。
「シロアジサジ」が人気なのは分かる気がする。ふんわりとした優しい雰囲気があってロマンチック。疲れて帰ってきた時に壁に掛かっていたらちょっと元気が出そうである。撮影地が「ミッドウェイ」というのも意味深で、読み込もうと思えばいくらでも読み込める懐の深さがある。一方、「柵」がまだ最初の価格帯なのもなんとなく理解できる。峻厳で凄いことは分かっても部屋に飾るにはちょっとハードボイルド。HPにも使われているくらいだから作者にも愛着のある作品だろうし、とんでもなく吸引力のある一枚であることはだれもが感じているのだろうが、それがそのまま購入したり壁に掛けたりという行動につながらないというところがオリジナルプリントの面白いところである。
本当なら、まだみんながその価値に気が付いていない。気が付いていても購入までの決断ができていない「柵」をさくっと購入するのがカッコいい。人気のあるイメージの若いエディションを持っているということはそれだけいい目をしているということなのだから後からみんなに自慢できる。資金に余裕があるなら2枚とか3枚とか購入して値上がりに備えるのがもっといい。しかも5/30なのだから7万5000円で買えるのはこれが最後。次の6/30からは一気に10万円の値段が付いてしまう。買うならまさに今なのだ。
しかし「シロアジサシ」も捨てがたい。なにより最初に目が引きつけられたのがこれだったし、発表された「Veiled Observations and
Reflections」シリーズの代表的なイメージだし、「フォト・ルシダ」の「クリティカル・マス・ブック・アワード」も受賞しているし、でも高いし、でも高いといっても1ドル100円換算の大バーゲンだし、しかも26/30ということは世界であと5枚しか残ってないってことだし、残り5となるとこれからは一つエディションが進むごとに値段が
(けっこう)とんでもなくあがっていくことになるし、エディションが切れたらもう買えないし、こちらはこちらで買うなら今なのだ。とはいえ17万5千円なんてとんでもないし……あああ、のうみそが煮える。
結局、こ、こ、こ、ここ、ここ、ここここ、こここここ、ここここここ、ここここここと豆鉄砲を食らった鳩みたいな声を振り絞って、これにします、と指差したのがエディション26/30の"White
Terns, Midway Atoll"でした。あーあ、駄目じゃん。
「安いときは買えず、恐ろしく高くなってからしか買えないのが、凡庸なコレクタ−」との師匠
(こちらが勝手に私淑している南青山のギャラリー「ときの忘れもの」の「亭主」こと綿貫不二夫師)の頂門の一針が耳に痛い。年明け早々こんな買い物をしたことがバレたらお年玉どころか大目玉である。
ステップアップなんて、嫌いだー!
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